注目コラム
忘れちゃだめなことなんて、ほんとうはひとつもない

その夜は急にやってきた。

毎晩いっしょにシャワーを浴びていた。その日も例外なく。
わたしたちはめったに喧嘩をしなかった。
彼もわたしも、身勝手な怒りを他人にぶつけることをきらった。

はじめて、それはわたしにたいしての失望と、受け入れられない彼の怒りだった。

うそだと、すぐにわかった。
すべてがうそというより、別れの理由がそれだけではないきがした。
ほんとうのことを聞き出すまで、彼はひどく、傷つけるうそばかりをついた。
ときどき、うそにほんとうが混じっていることを、いやになるほど理解してしまった。

黙るわたしたちをよそに肩を濡らし続けるシャワーの音が遠くなっていく。
泣くこともできずにいたら彼が続けた。

『もう、分かり合う必要もない。歩み寄ろうとしなくていい。乗り越える必要がない。
変わらなくていい、おれたちはちがう。それだけのことなんだ。』

そのあと永遠と、如何に離れたほうが幸福なのかを彼は説明した。
悲しみに支配されたわたしには、なにも理解できなかったけれど。

変わりゆくわたしを許してはくれなかった。

彼はわたしに彼が介入することをたのしんでいたし、変わりゆくさまをときには喜び、大いに愛してくれた。
けれど、最後は、許さなかった。

おもえば、非常にタチの悪い人だった。
自分がどれほど他人に介入できるか試すために生きているような人だったのに、パートナーとなるひとにはそれらの影響を一切受けない意志の強さを求めていた。
愛している人からのそれを無視する強さなんて、いったいこの世の誰が持ち得るというのだろうか。

噓でも、パフォーマンスとしてでも、そう見せることはできたのかもしれない。
でも、若く幼かったわたしには到底理解できなくて、求められる"彼女"にはなれなくて、自尊心を失い、得たものは数年経ったいまようやくわかったような気がする、つらい恋となった。

彼が別れを切り出してから、わたしは情けなく毎夜縋り、彼の云う"理想の女性"であろうとした。
わたしがそう振る舞おうとするたび、彼はわたしを傷つける譫言ばかり放つようになった。
突き放すことが目的だったのかもしれない。
しかし彼の甘くずるく弱いところは、完全にわたしを離そうとしないところだった。
自分から一人の人間が離れてゆくことが、勿体なく、寂しく、許したくないことだったのだ。

2018/6/22 23:09 日記
毎日傷ついているけど、逆効果で、傷つくたんびにまだ愛してることを実感してしまう 愛してなければ傷ついたりしないということを、あなたは知らない
わたしを傷つけることも飽きてしまって、そうしたらほんとうに嫌いになれると思う

愛していなければ、傷つくこともないだろう。
傷ついた自分を知るたびに、彼を嫌いになれない自分を呪った。

変化を求め、変化を嫌う。
彼の性質はここにあって、わたしはついていくのに必死で、ついには尽きてしまう。

2017/5/30 00:43 日記
彼が、1人の時間が少なすぎる、と言った。
これからもこのひとといっしょにいるなら、わたしはこれをよく覚えておかなければならない。
彼のことを尊重してあげたいと、思うのか 思えるのか、というのは大切なことだと思う。
いくらおいしいご飯を作っても、身の回りの世話をしても それが彼の救いにはならないということ 生活を共にするのは難しい。
急に自分がすごくばかな女に思えた。

彼と一緒に住むことが決まった時点で、それなりの覚悟をした。同じ未来を歩むこと。
それが彼にとって不必要な覚悟であることは知っていて、ただわたし自身を安心させるためだけのものだということも、知っていた。

わたしといっしょにいながら、わたしじゃないひとにたびたび夢中になるひとだった。
それは架空の女性像であったり、昔の恋人だったり、会社の上司であったり。

なんどもあるそれにわたしはただの一度も怒ったことはなく、ただ自分を責めるばかりだった。

大切にされない自分がわるい。その価値が自分にはない。好きな人のうつりゆくこころを掴んでいられない自分の魅力不足。
わたしをそう思わせるのは、なんどか彼の気持ちがわたしから離れても、彼がわたしとの別れを決断することがなかったからだった。
そしてわたしは結局最後まで、自らの意志では彼との別れを決断できなかった。

別れてからもわたしがそんなとんでもない思考をつづけていたら、歳上の美しく聡明な女性が叱ってくれた。

「あなたの価値を決めるのはあなたを大切にしてくれる人が誰なのかであって、あなたを大切にしない人が誰なのかは一切関係ないでしょう そこだけは絶対に間違えないで」

奪われるような考えを持たないで、フランスパンで殴るよ!
と、わらって怒ってくれ、わたしはその言葉がなければいまでも自分をまもれずに、傷ついてばかりいたと思う。

自分ただ1人の未来をどれほどよいものにするかをずっと考えていて、そこに自分にとってよい相手がいれば、自分の未来がよりよいものになる、と、そんな考えの人だった。
わたしは彼にとって"よい"ひとになりたかった。
そして、わたし自身の未来も"よい"ものになると、信じて疑わなかった。

わたしのとっては彼ただひとりが美しくあたたかく、やさしく、大切だったけれど、彼はわたしじゃなきゃだめなときなんてただのいちどもなかったようにおもう。

小さなかなしみは積り続けていたけど、すこしずつすべてがよくなってゆくと、信じていたかった。

さいごに、ほんとうのことを伝えられた。
私を傷つけ続けた言葉から、一番遠いところにいるようなひとを、彼は好きになっていた。
それをきいてやっとわたしは泣くことがなくなって、彼との生活を終えた。

絶望を感情に還す言葉をすこしずつ手に入れて、時間をかけて、少しずつ自分を救っていった。
名前の知らない感情ほど恐ろしいものはない。

奪われる考えは、自分で自分の人生を台無しにしてしまう。

いまとなってはすべてわたしのものになってしまったから、共に過ごした数年でわたしのどこが形成されたのかわからなくなったけど、ふと日常で帰ってくるものがある。

彼はわたしのかなしみをかなしみのままにしなかったし、だれよりもなにもかもを褒めてくれたし、知らない場所や美しい絵や優しい歌を教えてくれた。

数年経って、ようやく穏やかに思い出すことができる。

生活に必死でいっしょにいることに必死で、おままごとみたいな、愛の真似事みたいな日々だった。

もう彼の顔を思い出せないこと。
昼間のラジオから流れてくる好きだった音楽に、吐き気がするほど気持ちが逆流しそうにもなる。
一緒に住んだ街には、まだ、にどといけない。

それはわたしの一部で、抱えてゆくしかない。

あなたのまなざしにわたしのいっときを奪われたことを、後悔はしていません。

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