今になって思うと、あれは夢だったのかもしれない。そう思えるほどに、何もかもが淡くて匿名的なその風景は、もう二度と再現できないメロディのように僕の目の前を時折通りかかる。もう何年も前の話だ。
彼女との出会いを遡る。この話の始まりは、2人の女友達との飲み会にある。場所は札幌市すすきの。
大学生になったばかりの僕は恋人という存在を渇望していた。高校生の頃は男女共学だったのにもかかわらず異性との会話量は合計しても原稿用紙2枚ほどにしか満たず、僕は自分の青春時代を棒に振ったと後悔していた。その失われた青春を取り戻すべく、僕は目の前の二人に恋愛相談的な話を持ちかけた。
「彼女がほしい」
向かいに座る女友達の一人が何か閃いたように言った。
「私の友達に可愛い子がいるの」
女が女に言う「可愛い」を信用してはいけない。彼女らは呼吸をするかの如く「可愛い」という単語を連発する。そんなことは分かっていたが、今の僕にそんなことを冷静に考える余裕もなく、彼女が提示したスマホの画面を勢いよく覗いた。
…可愛い。いろいろなものを差し引いたとしても可愛い。しかも他撮り。プリクラとか加工画像とかそういう類のものではない。バラバラの思考回路をなんとか接続し、これは信用に値するものだと判断した。
「紹介してあげようか?」
首がもげるほどに頷いた。極めて童貞的に。
その日から彼女とのメールのやり取りが始まった。(この時代にラインはなかった)この時の僕はどうにか文面にまで童貞臭が移らないようにとかなり気を使って文章を相手に送っていた。対面だと童貞臭が匂い立つが、文面だとどうにか抑えられる。それが功を奏したのか、あっさりとデートの約束をすることができた。
12月14日、彼女と僕は札幌駅で待ち合わせをした。ドキドキしながら待っていると彼女らしき人物が地下鉄駅方面からやってきた。僕のスマホに着信が鳴る。電話に出る。スマホを耳に当てながら彼女が近づいてくる。僕もその方向に歩く。お互いがお互いを認識できたことを確認するとお互いが通話ボタンを切る。鼓動がうるさかった。写真で見た数倍可愛い。黒くて大きな瞳。絶妙に主張しすぎない鼻。薄くて形の良い唇。光沢のある白い歯。僕はその時どのような会話をしたのか覚えていない。ただ、僕は終始緊張していて、動揺していて、その一方で彼女は余裕綽綽で、すごく対比的だったと思う。その日は彼女が予約してくれた間接照明のお洒落なお店で食事をした。僕は緊張していたけど、すごく話が盛り上がった。お互いMr.Childrenが好きでその話で盛り上がった。これほどまでに僕はミスチルに感謝した日はない。食事が終わると、彼女は慣れた動作で会計を済ませてくれた。僕は半分のお金を彼女に渡した。
初デートは成功に終わったと言えよう。僕はそう確信した。何故ならデート後にメールのやり取りが続いたからだ。僕は次のデートの約束をする算段に突入していた。僕は「また遊びたい」という旨を彼女に伝えた。彼女も同意してくれた。これはいけると思った。その頃の僕の滑稽さは今でも克明に思い出せる。メールのバイブレーションが鳴ると、僕はすぐさま画面を確認しその内容を読み、一人暮らしの部屋でガッツポーズを決める。内容によっては部屋中を駆け巡る。その時の僕は自分の興奮の抑え方を知らなかった。僕の隣や下の住民はひどく迷惑を被っていただろう。
彼女はいくつかの候補日を提示してくれた。ここで僕のボルテージは最高潮を迎える。いくつかの候補日の中に一際輝く文字。12月24日という文字。なんだこれは。千載一遇のチャンス。好機の中の好機。この好機を掴むために僕は今まで生きてきた。僕は少し時間を置いてから、震える手を押さえながらメールを打った。
「俺も12月24日空いているからその日にしよう」
人生は時に思いもよらぬ方向へ進むものである。彼女と僕はクリスマスイブに函館にデートに行くという約束(日帰りである)をした。このメールのやり取りで面白いのが僕らは「クリスマスイブ」という単語を一度も使用してないという点だ。
クリスマスイブ当日、前回と同様に札幌駅で待ち合わせをした。彼女は函館行きの切符を用意してくれて、函館のツアーも予約してくれた。本来こういうことは僕がやらないといけないのだけれど、その時の僕は何も分からなかった。だからいろんな意味で僕は恵まれていた。
函館行きの電車の中で僕らはいろいろな話をした。僕が未だにサンタさんを信じている話。血液と虫が苦手な話。彼女の兄弟の話。彼女はよく笑ってくれた。綺麗な歯並びを覗かせて。
函館に着くと晴天だった。函館に着いてからの詳細は述べないでおこう。記憶が断片的であるし、なんだか長くなりそうだからだ。でもその中に僕の記憶から強烈に離れない情景がある。函館の夜景。
冷え込む山頂。陸繋島のくびれた形。湾曲に広がる光の粒たち。まるで巨大なU F Oが美しい金粉をあたり一面に撒き散らした後のような鮮度のある景色。日本三大夜景とはこのことか。僕は感心して眼下に広がる函館の夜景を見下ろしていた。ふと横にいる彼女に一瞥をくれた。
その瞬間、心を打ち砕かれた。真冬の函館の寒さ、美しい夜景、非現実的な状況、いろいろな条件が重なり、僕の頭はおかしくなっていたのだと思う。彼女の横顔の尊さに本日告白することを決意した。
帰りの電車の中、僕は告白のことで頭がいっぱいになっていた。彼女は疲れて寝ていたからよかったものの、話しかけられたらまともに会話できないと思った。
札幌駅に着くと時刻は22時半を回っていた。彼女は家が札幌だからそのまま帰れるが、僕は札幌から乗り換える必要がある。駅の時刻表を見る。10分後に僕の自宅へ向かう電車が札幌駅に到着する。彼女が言った。
「電車何時?」
彼女はここで解散するつもりなのであろう。ただ僕には本日果たすべき使命が残っている。僕は嘘をついた。
「まだ30分以上時間がある。23時15分の江別行き。」
「そっか、じゃあもう少し一緒にいよう。」
安堵した。その後、彼女と僕は地下一階のベンチに座った。ここは人通りが少ない。告白する場所として最適だ。沈黙が続く。話を切り出そうとするにしても何から話せばいいのか分からない。
「今日すごく楽しかったね。」
彼女が僕を見て言う。自然な笑みだ。そうか。僕がこれから告白するなんて考えもしないんだろうな、そう思った。
「うん。楽しかった。」
無音がこだまする。だめだ。せっかく彼女が話しかけてくれるのに、僕は何も話を広げることができない。それどころか肝心の告白も切り出せないでいる。刻一刻と迫る残りの時間。
「そろそろだね。行こっか。」
彼女が立ち上がって言う。この時僕はすでに諦めていた。告白するなんて無理だ。まずなんて言っていいのかも分からない。そして僕は贅沢なのかもしれない。こんな可愛い女の子とデートができるだけで幸せだというのに、僕は彼女と付き合うことも考えようとしている。拡大していく欲望。それに伴い、その欲望を自分で満たせない痛切な無力感を覚える。僕は一生幸せになれないかもしれない。そんなことを思った。
駅の改札口は人がほとんどいなかった。世界の終わりのような静けさの中で、彼女は僕を見送ってくれた。僕に向けて手を振り、控えめに笑った彼女の顔は、今でも鮮明に思い出せる。
江別行きの電車に乗る。外は世界から全ての光が失われたように真っ暗で、少しすると粉雪が降ってきた。真っ暗闇の中に落ちていく白い粉。その時の景色は絶望的に美しかった。僕はウォークマンのイヤホンを耳に入れる。再生ボタンを押すと、back numberの「わたがし」が流れた。この真冬に夏の曲か。僕は心の中で笑った。でも曲の歌詞に耳を澄ませているとなんか泣けてきて、やるせない気持ちになってきた。不思議だ。楽しかったデートなはずなのに。あんなにも楽しかったのに、僕は今それとは別の気持ちでいる。たった一つの決意、告白をするという決意をしただけで何故僕はこんな気持ちにならないといけないのだろう。
電車はひどく無機質な音を立てて僕の家に向かっていく。札幌駅からどんどん離れていくこの電車に乗っていると、まるで彼女との心の距離まで離れていくように感じられた。
気づくと僕は家に着き、風呂も入らずそのままベッドに入り眠りに落ちた。
その後、彼女からは一度も連絡が来なかった。煌めいていた日常が、元の平凡な日常に戻ろうとしていた。
あの日から4年くらい経った。もちろん彼女とは連絡を取ってないしそれから会うこともなかった。
ある寝苦しい夏の夜、僕はラインの友達一覧の画面をスクロールしながら眺めていた。ずっとアイコンが変わらない人、動物の写真、酷く盛った自撮り。ふと目に止まる名前があった。見慣れたような見慣れない名前。そこには苗字が変わった彼女の名前があった。僕はスマホの電源を切り、目を閉じて眠った。